福岡地方裁判所小倉支部 平成10年(ワ)1351号 判決 2000年11月07日
原告 上田了英
他15名
右一六名訴訟代理人弁護士 中村博則
同 吉野高幸
同 秋月愼一
被告 宗教法人 永万寺
右代表者代表役員 光應知廣
右訴訟代理人弁護士 安武敏夫
同 鳩谷邦丸
同 別城信太郎
主文
一 原告らの地位の確認を求める訴え(後記原告らの請求一)をいずれも却下する。
二 原告らのその余の請求(後記原告らの請求二)をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は、原告らの負担とする。
事実及び理由
第一原告らの請求
一 原告らと被告との間において、原告らが別紙法中担当町内一覧表の各担当地域の被告の門徒に対し、単独もしくは、被告と共同して法務活動を行い、被告と独立して、門徒からお布施を受け取る旨の無名契約(小寺契約)上の地位を有することを確認する(以下、「請求一」という。)。
二 被告は、原告ら及び原告らの地位を承継した者以外に、被告の法務活動をさせてはならない(以下、「請求二」という。)。
第二事案の概要
本件は、被告において法中という地位にあった原告らが、右法中の地位について、主位的に、明治二五年、当時の被告の住職と原告らの被承継人らとの間において、右被承継人らに法中の地位を認め、かつ、被告が続く限り、その地位を承継した者について、永代法中たる地位を認める契約が締結されたものであり、原告らはその承継人にあたるが、解任される理由がないにもかかわらず、被告から解任された、また、予備的に、仮に、右明治二五年における契約の締結が認められないとしても、これまで原告ら及びその被承継人らが長年法中として法務活動を行ってきたものであるから、事実たる慣習または黙示の合意によって、原告らが被告における法務活動を経済的に独立して行う契約上の地位を有していたということができるところ、解任される理由がないにもかかわらず、被告から解任された旨主張して、その地位の確認を求め(請求一)、また、右明治二五年に締結された契約においては、被告が続く限り、原告らの被承継人の地位を承継した者について法中の地位を認め、かつ、他の者に被告の法務活動をさせてはならないことがその内容になっていたとして、原告ら及びその地位を承継した者以外に被告の法務活動をさせてはならないことを求めた(請求二)事案である。
一 争いのない事実等
1 被告は、浄土真宗本願寺派の寺である。
原告らは、被告において、法中の呼ばれていたものであり、被告の住職とともに、あるいは単独で法務活動を行ってきた。
2 被告は、原告らに対し、平成八年一一月一八日、その僧籍の削除を本山である西本願寺に申請するとの書面を送付し、そのころまたは平成九年八月ころ、原告らを解任した。
3 本件訴訟に先立って、原告らは、被告を相手方として、調停を申し立てた(小倉簡易裁判所平成九年(ノ)二七〇二号)が、右調停は、平成一〇年八月二一日、不調に終わった。
二 原告らの主張
1 請求一について
(一) 後記「被告の主張1」記載の本案前の答弁について
原告らは、法中として、住職とは独立して門徒からお布施を受け取り、自己の収入としていたのであるから、この点で財産上の利益を有しており、具体的な権利または法律関係をめぐる紛争があるといえる。
そして、本件訴訟では、信仰の対象の価値または宗教上の教義に関する判断が求められているのではないし、その判断が、訴訟の帰すうを左右することもない。
したがって、請求一は、具体的な法律上の争訟性を有するといえ、被告の本案前の答弁は失当である。
(二) 主位的主張
(1) 被告における法中制度
被告は、他の浄土真宗の寺に比較して、大勢の門徒を有する寺であり、一人の住職がその門徒を維持管理することが困難なため、住職以外の法中一〇軒が各地域の門徒を担当するという形態を採らざるを得なかったものであり、いわば、被告という大寺のもとに、法中一〇軒という各小寺があり、各小寺も一個の寺としての法務活動を行いながら、全体としては被告という一つの寺を維持しているという実態にある。
(2) 法中の権利
原告ら法中に認められている権利の内容は、具体的には、以下のとおりである。
① 法中は、別紙法中担当町内一覧表のとおり、被告の門徒を地域ごとに分けて担当し、住職と独立して、あるいは共同して、後記(3)記載の法務活動を行う。
② 法中が門徒から受け取るお布施は、自己の収入となる。法中から住職への上納金を納めることもないし、住職から法中へ給料が支払われることもない。
③ 法中の権利は、被告が存続する限り法中の直系子孫に受け継がれ、法中の権利を有する者及びその地位を承継した者以外が被告の法務活動を行うことはできない。
(3) そして、前項①の法務活動の具体的な内容、右法務活動を行う際の住職と法中の担当等は、以下のとおりである。
① 葬儀
門徒が亡くなると、その遺族が担当地区の法中(以下、「地域担当法中」という。)に連絡し、法中が臨終勤行(枕経)を行う。その際、葬儀の日時については、地域担当法中が、遺族の意向と住職の予定を調整して決定し、当番法中へ連絡する。なお、当番法中とは、一〇軒の法中家が順番で、住職、地域担当法中と共同して葬儀を行うことになっているものである。
葬儀は、住職、地域担当法中、当番法中が共同して行う。地域担当法中は遺族と共に火葬場に同行し、勤行(読経)を行う。住職は、これには同行しない。お布施は、直接門徒が右三者に対し、それぞれ直接渡し、これは、受け取った者の収入となる。
なお、北方地区では、地域担当法中がいないため当番法中が地域担当法中の役割を行い、葬儀は、住職と当番法中で行う。
② 法事(中陰、年忌参り、初盆など)
遺族が地域担当法中と相談し、日程を決めて法事を行う。その際、遺族の意向によって住職を招く場合もあるが、住職の日程が空いていなければ、住職は出席しない。
中陰の初七日の法事については、住職は、出席しないことになっており、門徒と地域担当法中主体で進められる。
住職単独で法事を行うことはなく、地域担当法中が同席する。
③ 布教活動
被告の独特の風習として、「ご縁(法座)」と呼ばれる活動がある。これは、法事の後、地域担当法中が、新たに席を持ち、親族または縁者や町内の人を集め、法話をするというものである。
また、門徒の教化をするための「会合」と呼ばれる活動がある。これは、地域担当法中が、その地域担当地区において、月に二、三回の割合で法話をするものである。
右「ご縁」及び「会合」は、地域担当法中が行うもので、住職や当番法中が行うことはない。
④ 月忌参り
毎月の忌日参りは、地域担当法中が行うことになっており、これを住職が行うことはない。
⑤ 法要
被告が行う法要として、永代経、春彼岸、婦人会、御誕会、皆作盆会、秋彼岸、戦没者、御正忌法要の年八回の法要がある。
これらの法要は、それぞれ昼夜五日間行われ、特別な事情がない限り、住職をはじめ、原告ら法中一六人全員が勤める。その際には、法中一〇軒は、当番制で一日ずつ、本堂の給仕や講師の案内等法要の世話を担当する。また、法中の妻達も、法中坊守として、門徒の接待等、法要のお給仕をする。
⑥ 三日の番
被告において連日行われる朝六時からのお勤めについて、法中一〇軒は、当番で三日ずつ、時鐘から給仕・お勤めまでを行う。
⑦ 報恩講
報恩講とは、親鸞聖人の遺徳を偲ぶ浄土真宗門徒の行事であるが、被告の門徒の各町内会がそれぞれ年一回勤める。住職、地域担当法中、当番法中が、その町内会すべての門徒の家をお勤めしてまわり、住職と当番法中が法話をする。
⑧ 法中の報恩講
法中の報恩講とは、法中一〇軒と住職である光應家の一一軒で、年に一度、全員ですべての家でお勤めを行う。この一一軒が毎年順番に当番になり、当番に当たった家は、布教使を招いて法座を営む。
(4) 法中制度の発生原因
被告において、前記のとおりの法中の地位が認められるようになったのは、小倉戦争で焼失した被告の本堂の再建資金を調達するために、明治二五年、当時の第五代住職光應智達、光應照久、生田了玄、光應斜、片山智教、鈴木秀光、寺島善城、吉村大圓、鈴木浄晃、光應金麻呂、以上一〇名の者(別紙系図一の各ルートの一番左に記載されている者。以下、右一〇名を「明治二五年の当事者」という。)が、金五〇〇円をそれぞれ出資し、これと引換えに、被告が存続する限り、被告の僧侶たる地位を右明治二五年の当事者及びその承継人のみに認める旨の無名契約を締結したことによる(以下、右無名契約を「本件契約」という。)。
(5) 原告らへの承継
原告らは、別紙系図のとおり、明治二五年の当事者から法中の地位を承継した者である。
なお、別紙系図に記載されている、「預り」という制度(原告西澤裕臣のルートの部分)は、法中の権利(法中株)を取得したわけではないが、これを預かった後に返還を求められるまで永万寺の僧侶として法務に携わることができるというものである。
(6) 解任
前記「争いのない事実等2」記載のとおり、被告は、平成八年一一月、解任と称して、原告らの法的地位を消滅させる意思表示を一方的に行ったが、前記(2)及び(4)記載のとおり、右法中の地位は、被告が続く限り、原告ら及びその承継人について認められるとされたものであり、また、原告らが解任されるような理由は何もなかったのであるから、被告の解任の意思表示の正当性と法的効力はない。
(三) 予備的主張
仮に、前記(二)(4)及び(5)の各事実が認められないとしても、これまで、原告らは、被告において、法中として少なくとも前記(二)(3)①ないし⑧記載のとおりの法務活動を行ってきたことは争いのない事実であり、原告らが法務活動を行う契約上の地位が認められてきた。そして、被告においては、明治二五年ころから現在に至るまで、一〇〇年以上にわたって、法中による法務活動が繰り返されてきたものであるところ、被告は、原告らが法中として法務活動を行ってきたことに対し、長年にわたって全く異議を唱えなかった。
したがって、一〇〇年以上前において、明治二五年の当事者と被告との間で右被告と原告らとの関係を裏付ける、何らかの合意が存在したか、または、事実たる慣習により、原告らは少なくとも前記(二)(2)①ないし③を内容とする契約上の地位を有していたといえる。
2 請求二について
前記(二)(2)及び(4)記載のとおり、原告ら及びその承継人らのみに法中たる地位を認めることを内容とする契約が締結されている。
三 被告の主張
1 本案前の答弁(請求一に対し)
「原告らの主張(二)(3)」記載の各事実にかんがみると、法中は被告における一定の法務活動を行い得るのであるから、法中の地位は、まさに宗教上の地位ということができるのであって、法中たる地位の確認を求める請求一は、法律上の争訟に当たらない不適法なものである。
2 本案の答弁
(一) 請求一について
(1) 主位的主張に対する反論
明治二五年ころの、被告が存続する限り、被告の僧侶たる地位を明治二五年の当事者及びその承継人にのみ認めるという旨の約定は存在しない。
原告ら主張のように、被告本堂が小倉戦争で焼失し、明治二五年ころ、現在の被告の本堂を建て直した事実はないのであって、被告の本堂の再建資金を調達するために、被告が明治二五年の当事者から金五〇〇円ずつの出資を受けた事実はない。
(2) 予備的主張に対する反論
一定の事実が一定期間継続したからといって、それが自然に当事者間の契約内容となるものではないが、少なくとも、原告らの担当地域が原告らに保証されていたという事実はなく、これが事実たる慣習または黙示の承諾の内容となっていることはない。
(3) 関連する事情
① また、被告が、原告らを解任したのは、平成九年八月である。原告らの主張する平成八年一一月ころは、被告が原告らを解任したときではなく、原告ら法中の永万寺の法務活動を拒否したときである。
② そして、平成九年八月の解任について、仮に、右解任の有効性が問題となり得るとしても、被告と原告らとの契約関係は、準委任契約であり、これは適法かつ有効に解約されている。
(二) 請求二について
前記(一)(1)に同じ。
四 争点
1 請求一について
(一) 原告らの法中という無名契約上の地位の確認は、宗教上の地位の確認にほかならないといえるか。
(二) 仮に、本件請求が原告らの宗教上の地位の確認には当たらず、法律上の争訟性が肯定される場合、法中の地位の発生原因は何か。
(1) 本件契約締結の有無。
(2) 仮に、明治二五年の本件契約締結の事実が認められないとしても、原告らが法中たる地位にあることは、何らかの合意に基づくものといえるか、または、事実たる慣習または黙示の承諾があったとして認められるといえるか。
2 請求二について
本件契約締結の有無及びその内容(被告が存続する限り、被告の僧侶たる地位を明治二五年の当事者及びその承継人にのみ認めることが、その内容となっていたか。)
第三当裁判所の判断
一 争点1について
1 裁判所法三条にいう「法律上の争訟」とは、当事者間の具体的権利義務あるいは法律関係に関する争いであること及び法令の適用によって終局的に紛争を解決できるものであることを要する。
《証拠省略》によれば、
(一) 前記「原告らの主張(二)(3)」記載の各事実
(二) 被告の寺則及び浄土真宗本願寺派の宗門基本法規集には、法中について記載するところはなく、また、被告において、法中の地位にあることが宗教法人法上の代表役員の地位にあることを意味するものでもない。
以上の事実が認められる。
右認定事実に、原告らが、法中とは住職であること、また、実際に法中が代表役員の地位についてはいないことは、原告らも認めるところであることを併せ考慮すると、法中は、宗教法人法一八条の代表役員のような宗教法人の法律上の管理機関等ではなく、被告において、儀式の執行、教義の宣布等を職務内容とするものであることが明らかである。
そうすると、法中という地位は、まさに宗教団体である被告内部での宗教上の地位そのものであるということができる。
したがって、請求一については宗教上の地位について、その存否の確認を求めるにすぎないものであって、具体的な権利または法律関係の存否について確認を求めるものとはいえないから、このような訴えは、確認の訴えの対象となるべき適格を欠くものの確認を求める訴えとして不適法であるというべきである。
2 この点、原告らは、前記「原告らの主張1(一)」記載のとおり、請求一が具体的な法律上の争訟性を有する理由として、法中が住職とは独立して門徒からお布施を受け取り、自己の収入としていたことを指摘し、この点で、財産上の利益を有しており、具体的な権利または法律関係をめぐる紛争があり、かつ、本件訴訟では、信仰の対象の価値または宗教上の教義に関する判断が求められているのではないし、その判断が、訴訟の帰趨を左右することもない旨主張する。
しかし、宗教団体内部の宗教上の地位が訴訟物とされた場合には、たとえそれが権利義務や法律関係の前提となっている場合であっても、当該訴訟は、法律上の争訟に該当せず、裁判所の審判権の範囲外になると解すべきである(最判昭和五五年一月一一日民集三四巻一号一頁参照)。
3 なお、請求二について、一応付言しておくに、訴訟物が権利義務や法律関係であれば、その前提問題が宗教団体内部の宗教上の地位(法中)であっても、そのことから法律上の前提問題たる宗教団体内部の争訟性が否定されるわけではない(前記最高裁判決参照)。ただし、その際、法中たる地位の存否の判断において、宗教上の教義、信仰の内容に立ち入る必要のある場合には、当該訴訟の法律上の争訟性が否定されることになる。請求二は、法中の地位が原告ら及びその承継人にのみに認められるものであって、被告が、原告ら及びその承継人以外の者に被告の法務活動をさせることを差し止める旨の給付の請求であるが、右判断においては、その前提として原告ら及びその承継人が法中として法務活動を行い得る地位にあるか否かを判断しなければならない。
しかし、原告らが右のような法務活動を行いうる地位にあるか否かの判断は、右宗教上の地位を原告ら及びその承継人が永代引き継ぐこと、原告ら及びその承継人以外の者に法中の地位を認めないことを内容とする特約の存在が認められるか否かが争点となる。そして、右判断においては、明治二五年に右特約を内容とする契約が成立したか否かを判断すれば足り、法中たる地位の存否の判断において、宗教上の教義、信仰の内容に立ち入る必要がない。
したがって、請求二の場合は、法律上の争訟性が肯定される。
二 争点2について
1 明治二五年の本件契約締結の有無及びその内容について、①契約締結の経緯すなわち、被告の本堂が小倉戦争で焼失したために、被告はその再建資金を調達する必要性があったといえるのか、②明治二五年に本件契約が締結されたか否か、③その契約において、被告が存続する限り、被告の僧侶たる地位を右明治二五年の当事者及びその承継人のみに認めることが内容となっていたか、以下、順次検討する。
2 本件契約締結の経緯について
《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。
(一) 「永満寺履歴の一齣」と題する冊子(甲一)には、小倉戦争の際、長州軍による焼き討ちにあい、被告の本堂が焼け落ちた旨の記載があるが、甲一号証の作成者である村田馨は、原告寺島善和及び同寺島善裕の被承継人である寺島善晴、原告堀口崇及び同堀口教正の被承継人である堀口専正、原告吉村純良及び同吉村正光の被承継人である吉村純清が口述するところを、村田馨が筆録してそれを整理したものであり、それ以外の資料に基づくなどして記載したものではない旨等を認めている。
(二) 郷土史等には、小倉戦争の際、田中(被告の所在地の当時の字)から、守恒及び蒲生までにわたって焼かれたこと、専妙寺他、被告の付近の寺が焼失したことなどの記載があるが、被告の本堂等の焼失に関する記載はない。
(三) 被告から見つかったことがうかがわれる古文書には、「慶應二年八月、本堂焼失」と記載されているが、右古文書には、作成日時、作成者等の記載がない。
(四) 明治二五年より前に作成され、明治二五年当時、被告の本堂にあったと思われる「親鸞証人絵像」等の掛け軸が被告に現存している。
(五) そして、被告の副住職である山本敏雄が、被告代表者の住職就任時の所信表明として作成した甲三七号証(「永万寺勤行聖典」と題する書面)には、「永万寺寺基百年・住職継職慶讃法要を厳修し奉る」、「御堂創建百年なり。時に禍難あり、古には苦節あれども、門信徒一同よくこれに耐え、貧しき浄財の中より懇念篤く」という記載及び末尾に「一九九〇年一二月慶讃法要表白」の記載があるところ、その百年前である一八九〇年は、明治二三年にあたることは裁判所に顕著である。
よって、以上より、被告の本堂が小倉戦争で焼失したことについては、前記(五)の甲三七号証も含めて、言い伝えの域を出ないもので、客観的で信用できる証拠に乏しく、これを認めるに足りないといわざるを得ず、他に右事実を認めるに足りる証拠はない。
3 本件契約を締結した事実が認められるか。
仮に、明治二五年に永万寺本堂が建築されたとしても、さらに、その際、本件契約が締結されたかについて、検討する。
(一) 《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。
(1) 被告の先代住職である光應智栄(以下、「先代住職」という。)が作成した、「永満寺畧歴と衆徒の関連」と題する書面には、明治二五年の永万寺落成時に本件契約が締結された旨の記載がある(甲三。前半部分平成一〇年二月一六日付け、後半部分同月一七日付け。なお、本件契約締結についての記載があるのは、右後半部分である)。
(2)「確認書」と題する書面には、「一、昭和二六年六月一日、永万寺衆徒となることのできる権利を譲渡した。二、右一項の権利は、いわゆる『株』と呼ばれ、この『株』は、終身永万寺の衆徒の地位を認めるものであり、乙の代々の直系子孫にも永万寺の衆徒の地位が認められるものである。三、この『株』は、永万寺本堂再建資金を出資した衆徒に認められたものであり」、「乙(原告西澤裕臣のこと)に譲渡された『株』は、光応斜氏が有していたものを永万寺七代住職光応智英が預かっていたものであった」との記載があり、末尾に先代住職及び原告西澤裕臣の署名押印がある(甲四。平成一〇年七月一日付け)
(3) また、「認書」と題する書面には、「永万寺本堂完成時である明治二五年頃より、衆徒十軒は、本堂建立資金を出資した事に由り、当時の永万寺五代住職光応智達師と門徒總代の間において終身永万寺の衆徒の地位が約束され、代々の真系子孫にも世襲制として永万寺現本堂の存在する限り、永万寺衆徒としての地位が認められる」旨記載され、先代住職と原告らのうち一〇名の者の署名押印がある(甲三四。平成一〇年七月二八日付け)。
(4) また、「前住職よりすべての御門徒様に訴えます」と題する書面には、「永万寺の百年来の歴史に鑑み、従来通りに門徒・法中・住職の三者が一体となった永万寺の繁栄」等を望むものである旨記載され、先代住職の署名押印がある(甲三五。平成一〇年七月二八日付け)。
(二) この点、被告は、右(1)ないし(4)記載の信用性をいずれも争うので、これを検討するに、
(1) まず、右(1)の点について、乙一四号証には、先代住職が、平成一一年四月二八日に、甲三号証の内容について、自身の認識に基づいて書かれたものではなく、法中に言われるままに書いた部分が多い旨述べている旨記載されている。
確かに、甲三の前半部分(平成一〇年二月一六日付け分)は、加除訂正も多く、先代住職の真情が見てとれる内容となっているのに反し、その後半部分(同月一七日付け分)は、あらかじめ用意されていた文章を写したごときものとなっているものである。
(2) そして、原告西澤裕臣本人自身、甲四号証の書面は、平成八年に被告と原告らとの間に、法中の権利を巡る問題が起こったために作成したものである旨供述している。
また、その内容についても、株の取得時期は、被告の過去帳には原告西澤が昭和二六年二月には、法務活動に関わっていたことが記載されているのであって、甲四と整合性のないものとなっている。
(3) そして、甲三四及び三五号証の作成経緯について、原告寺島善和は、甲三四号証については、ワープロで作成された文章に先代住職がその内容を確認のうえ署名押印した旨述べており、甲三五号証については、原告らの身内の者らが、もめごとを解決するために先代住職に右作成を依頼した旨供述している。
(4) 右によれば、前記(一)(1)ないし(4)((1)については、平成一〇年二月一七日付け後半部分)の記載は、いずれも本件発生後に、法中らが紛争解決を望む先代住職に対し、作成を迫ったものであり、その文案はいずれも、法中らが検討したうえ、作成したものと考えられるのであって、先代住職が、その内容につき自ら正確な知識等を有していたか疑わしいものであるといわざるを得ない(なお、先代住職は平成一〇年七月には、老人性痴呆の症状が少なくとも断片的には現れ始めていたものと考えられる。)。
(三) そこで、さらに、本件契約が締結されたか否かについて検討するに、明治二五年の当事者が拠出したとされる金額について、証拠によれば、以下の事実が認められる。
(1) 乙二〇号証には、「伍十円(一説に伍百円)」との記載がある。
(2) 乙三二号証の一には、右原告長尾はその祖父から二〇円だった旨聞いたことがあるが、結局、その額はよく分からない旨の発言をしている記載がある。
(3) 原告寺島善和は、本人尋問においても、五〇〇円か五〇円というふうに言い伝えられている旨供述している。
右事実からは、出資した額については諸説あるうえ、原告ら自身、その認識は必ずしも一致していないことが明らかであって、右伝承の内容自体相当不明確な点を含んでいる。
(四) また、本件においては、明治二五年の当事者に交付された、契約書に相当するような書面や覚書等の証拠は、存在しないことが明らかである。
《証拠省略》によれば、明治二五年当時の五〇〇円という金額の価値は、現在でいえば、一〇〇〇万円を優に超える金額であったことがうかがわれる。
そうすると、右五〇〇円が、仮に寄付された場合であっても覚書等が作成されることも多いと考えられるし、まして、本件契約のように、明治二五年の当事者に対し、被告における法務活動を行い得る権利を与え、右権利をその承継人について永代認めるという、宗教法人である被告にとって、まさに根幹に関わるような債務を負うような場合であれば、契約締結の際、契約書に相当するような書面や覚書等の書面が作成され、明治二五年の当事者に交付されるのが通常であるといえる。
さらに、原告ら主張のように「預かり」という制度が認められていたとすると、その権利がもともと誰のものであったのか、現在その権利を真実認められるものは誰なのか等分からなくなってしまい、後日紛争を生じる可能性も高いと考えられるところ、右権利の重要性にかんがみれば、このような場合があるにもかかわらず、覚書等の書面を作成、交付していなかったということも考えにくいところである。
そして、確かに、原告らの主張する契約の時期は、一〇〇年以上も前のことであるから、その間に原告らが紛失してしまった可能性も否定できないが、このことを十分に考慮したとしても、原告らの主張によれば、右契約によって認められた株の数は一〇株と少なくないことにかんがみると、右のような書面が一つも現存していないのは、やはり不自然であるといわざるを得ない。
(五) 以上検討したところを総合考慮すると、被告と明治二五年の当事者との間で本件契約が締結されたことは、認定することができないといわざるを得ない。
4 本件契約の内容について
以上のとおり、本件契約が締結された事実について認めることができないとしても、念のため、明治二五年の当事者と被告との間で、法中の地位を認める契約が締結されたとして、その内容が被告の僧侶たる地位を明治二五年の当事者及びその直系子孫にのみ認めるものとなっていたかについても付言する。
(一) 明治二五年の当事者から原告らに至るまでの承継の経緯について
まず、被告において、明治二五年の当事者から原告らに至るまでにどのように承継がなされてきたかについて、以下検討する。
(1) この点、原告は、当初、明治二五年に本件契約が締結され、その際の当事者は、光應智達を含む別紙系図の各ルートの左端の者一〇名であり、それ以降の承継の過程は、別紙系図のとおりである旨主張していた(訴状)。
しかし、その後、被告が、明治二五年ころに原告らの直系尊属が直接出資したのは、原告片山智弘のルート及び原告寺島善和及び同寺島善裕のルートのみであるとして、他の原告らについて、その承継の経過についての釈明を求めたところ(答弁書)、原告らは、「法中の権利を最初に取得した正確な時期及び取得するために要した正確な金額は判明していない。これを明らかにするのは現実には困難である」として、永万寺法中株承継表のとおりに主張を変更し(原告平成一一年九月一三日付け準備書面、同月一七日付け準備書面)、その後、また、訴状記載のとおりの主張に戻っている(原告平成一二年五月二二日付け準備書面)が、右主張の変遷について、原告らは、何ら合理的理由を明らかにしていない。
(2) 仮に、原告らの主張する法中の権利の発生原因が、いずれにしても、かなり以前のことであるため、原告らの主張が前項記載のように変遷するに至ったことがやむを得ないものだとしても、別紙系図のとおりとする主張の内容について、検討してみるに、《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。
① 原告堀田政城及び同堀田弘城のルートについて
堀田一城が光應照久の直系卑属である旨の主張・立証がない。
② 原告菊池正人のルートについて
菊池顕照が光應智達の直系卑属である旨の主張・立証がない。
③ 原告上田了英及び原告上田博之(了信)のルートについて
上田了順が生田博英の直系卑属である旨の主張・立証がない。
④ 原告長尾法真及び同長尾唯利(速眼)のルートについて
長尾法専は、原告西澤裕臣の父親である西澤教順から法中の株を譲り受けたこと、また、西澤教順は、吉村大圓の養子となってその法中の地位を承継したこと、それは、吉村大圓は、被告の本堂焼失前からの衆徒であったが、五〇〇円が出資できないということで、いったんは法中の地位を取得することをあきらめたものの、西澤教順の父が、吉村大圓が法中になれるよう出資金を出すと同時に、西澤教順を吉村大圓の養子にして法中の地位を承継させることにしたものであること、その後、西澤教順は、長崎に移住する際、法中の権利については、弟の上田辰次郎に一任していたところ、右権利を求めたいという長尾法専が現れたので譲り渡すというような形を取った。
そうすると、長尾法専は、西澤教順の株の譲渡を受けたということであって、長尾法専の法中の権利の取得は、同人が西澤教順の直系卑属であることを理由とするものではない。
⑤ 原告西澤裕臣のルートについて
原告西澤裕臣の株について、原告西澤裕臣の父西澤教順について、前項の記載のとおりの経緯があったところ、原告西澤裕臣が永万寺の法中たる地位につくことを望んだ際、原告西澤裕臣の叔父の前記上田辰次郎が、被告には空き株がある旨言って、光應斜の株を譲り受けることとし、三年間お礼奉公等をするなどした後、昭和二六年六月一日、株を取得した。
そうすると、原告西澤裕臣は、光應智栄が預かっていた株の譲渡を受けたということであって、原告西澤裕臣が明治二五年当時の契約者である光應斜の直系卑属であることを理由とするものではない。
⑥ 原告松本信之及び同松本信彦のルートについて
上田真城が鈴木秀光の直系卑属である旨の主張・立証及び松本定信が上田真城の直系卑属である旨の主張・立証がない。
⑦ 原告堀口崇(教英)及び同堀口教正のルートについて
米田教信が鈴木浄晃の直系尊属である旨の主張・立証及び堀口専正が米田教信の直系卑属である旨の主張・立証がない。
⑧ 原告吉村正信正光(正信)のルートについて
吉村大圓は、西澤教順が得度するに至り、その吉村家が法中の地位を西澤教順に譲らなければならなくなったため、なんとか、吉村家においては、法中の地位を取得するために五〇〇円の出資金を集めて光應金麻呂の権利を譲ってもらい、吉村大圓の子である吉村純清に法中の地位を取得させた。
そうすると、吉村純清は、光應金麻呂の株の譲渡を受けたということであって、吉村純清の法中の権利の取得は同人が光應金麻呂の直系卑属であることを理由とするものではない。
以上の認定事実からすると、被告において、法中の地位が、必ずしも明治二五年の当事者の直系卑属にのみ承継が認められてきたものということはできない。
そして、そもそも、原告の主張する預かりという制度が、明治二五年の当事者の直系卑属が幼少であるなどして、その間、直系卑属以外の者が法務活動を一時的に行うことができ、その後、直系卑属が成長した際には、その直系卑属に法中たる地位を認める権利を返却するという内容になっていればともかく、本件のように、預かった人が、明治二五年の当事者以外の者に譲渡を認める制度である以上、明治二五年の契約が、明治二五年の当事者の直系卑属に法中の地位を永代認めるという内容のものであったということはできないというべきである。
(二) その他被告における法務活動を担当していた者について
(1) 《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。
① 鈴木鉄導、鈴木龍信、鈴木学が法務活動を行っていたこと
② 光應智栄から頼まれて、浄土真宗本願寺派法円寺住職深川信教が、小倉南区新道寺地区の被告の門徒に対し、法務活動をしてきたこと、その後、浄土真宗本願寺派明照寺住職明石賢成がこれを引継ぎ、現在も法務活動をしている。
③ その他、昭和二〇年に亡くなった島井義剣は、被告の僧侶として法務活動を行っていたほか、木村春暁、澤田教雲も被告の衆徒であった。
右認定事実からは、本件紛争が起こる以前から、被告において、原告ら及びその被承継人ら以外の者が被告の法務活動に携わっていたことは明らかである。
(2) なお、右(1)の点につき、原告らは、鈴木が法務活動をすることが認められたのは、原告ら法中以外の者に法務活動を行わせるわけにはいかなかったが、原告ら法中とは異なり、一代限りということで原告ら法中がそれを許可したことによって、例外を認めたものと主張し、右主張に沿う《証拠省略》も存在するが、右点に関する客観的証拠はないし、原告寺島善和が述べる、鈴木学が右一代限りの地位を認められた時期も客観的事実と齟齬していることが明らかであって、原告らの右主張は認め難いというべきである。
5 したがって、以上の事実を総合考慮すると、仮に法中の地位を認める契約があったとしても、右契約において、永万寺が存続する限り、永万寺の僧侶たる地位を原告ら及びその承継人にのみ認めることが本件各契約の内容となっていたということは、認定することができない。
6 そうすると、いずれにしても、原告の請求二は理由がない。
三 よって、原告らの本訴請求のうち、請求一の訴えについては、法律上の争訟性を欠くものであるから、その余の点について判断するまでもなく、これを不適法として却下することとし、請求二については、理由がないので、これを棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 有満俊昭 裁判官 村田文也 宮武芳)
<以下省略>